潮風のなかで完熟を見守る人々
熊本県天草視察ノート②
2025.08.13
潮風のなかで完熟を見守る人々
熊本県天草視察ノート②
2025.08.13
有明海、八代海、東シナ海の三つの海に囲まれた島々、天草。とりわけ有明海は、潮の干満差が大きく、大潮の際には最大で約6メートルにも及びます。さらに、背後の山々から注ぎ込むミネラル豊富な水が豊かな栄養をもたらし、魚介類が育ちやすい漁場が広がっています。
この日、取材チームは有明海に面した有明町で漁業と養殖業を営む「恵比寿丸」を訪ねました。出迎えてくれたのは、漁師歴19年の原田 奨さん。原田家は代々この地で、定置網や底引き網漁業を行ってきました。しかし近年の漁獲量の減少に直面した原田さんは、新たな挑戦として牡蠣の養殖を始めました。
一般的な牡蠣の養殖では、稚貝を密集させて育てる方法が主流ですが、原田さんが採用しているのは「シングルシード方式」。一粒ずつの稚貝を分離し、大型のカゴに間隔をあけて入れることで、波に揺られながら自然に近い環境で育つ手法です。この方法は、成長に合わせてカゴを海から引き上げ、大きさごとに選別して再び海に戻すという手間のかかる作業の繰り返しが欠かせません。
それでも原田さんは、「殻の形が整い、身が引き締まり、味が濃くなる」と、その価値を語ります。まるで“牡蠣の放し飼い”とも言える、手間を惜しまぬ育て方です。
私たちも実際に船に乗せていただき、養殖の現場を見学しました。原田さんが海中から引き上げたカゴの中には、殻から身がはみ出すほどの岩牡蠣がずっしりと並んでいます。
そのひとつを手に取った原田さんは「完熟だよ」と言いながら、ナイフで殻の上だけを開けて中身を取り出し、田邉シェフへ手渡しました。まだ心臓が動いている牡蠣の、つややかな身をひと口含んだシェフの目が、大きく見開かれます。「とてもクリーミーです」と、驚いたように言葉をこぼしました。
恵比寿丸では牡蠣の養殖をメインにウニの素潜り漁も行っています。原田さんは、潮の流れが穏やかになるタイミングを見計らって、1日に2回、天候に関わらず海へ潜るのだそうです。お子さんのクラブ活動の試合がない限りは、ほぼ毎日欠かさないといいます。
作業場では、スタッフの皆さんが、原田さんの獲ったムラサキウニをひとつひとつ手作業で捌いていました。トゲの長いムラサキウニを素手で持ち、実を崩さぬようスプーンを使ってくりぬき、海水が入った容器へ次々と移していきます。
ところで、原田さんは趣味も釣りなのだとか。「食べるならコノシロ(コハダ)です。小骨が多い魚ですが、新鮮なうちに刺身で食べると身がかたいので骨がまったく気になりません。うちの子も食べますよ」釣るのが好きなのはサワラとのこと。「1本釣りが楽しくて。春になると仕事場に書き置きをして、海に行くこともありますね」と豪快な笑顔を見せてくれました。
恵比寿丸さんを後にするとき、人も通る道を小さなカニが道を横切る姿を2回見ました。人のくらしと自然との近さを感じます。
チームはそこからさらに天草最西端の崎津という土地を訪ねました。そこは2018年、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に登録された集落です。漁港のすぐそばに佇む白い﨑津教会は、杉板張りの日本家屋に囲まれ、漁村の風景に静かに溶け込んでいます。この地域では、年間を通して玄関先にしめ縄を飾る風習があります。1614年の禁教令下、信徒であることを隠すためのひとつの工夫として定着した名残です。
漁港のすぐそばに佇む白い﨑津教会は、杉板張りの日本家屋に囲まれ、漁村の風景に静かに溶け込んでいます。この地域では、年間を通して玄関先にしめ縄を飾る風習があります。1614年の禁教令下、信徒であることを隠すためのひとつの工夫として定着した名残です。
チームは事前に、天草が「南蛮柿」と呼ばれ、いちじく発祥の地であることを把握していました。そのため、イチジク栽培をおこなう宰川寿之さんを取材したいと考えていたのです。﨑津の一角で土産物屋「南風屋(はいや)」も営む宰川さんに、イチジク畑を案内してもらいました。100本を超える木が水平に広げる枝には、青々とした大きな葉と成長途中の実がたくさんついています。
1600年代、ポルトガル人のメスキータ神父が海を越えこの地にイチジクを植えたと言われています。その歴史から天草地方にはイチジクを“南蛮柿”という呼び名があります。現在、﨑津でイチジクを育てているのは宰川さんただ一人です。
「朝、市場で買った人が、夕方には完熟の甘さを味わえるように」と、収穫は完熟後に行うのが宰川さんのこだわりです。ただ、完熟したイチジクは傷みやすく、皮が裂けたり腫れたりすることもあります。そのため、ひとつずつ状態を確かめながら、慎重に実を外していく必要があります。
「熟した実はその日のうちに出荷するため、翌日には持ち越せません。収穫時期の8月後半から9月末までは、毎日が勝負。だから、この時期は飲みの誘いも全部断っています」と笑いながら、イチジクの実が葉に隠れてないかを確認していました。
収穫された実は市場に出荷され、出荷できなかったものはジャムなどの加工品に姿を変えます。「南風屋」では、ワインで煮たイチジクと牛乳でのばしたクリームあんを揚げパンに詰めた「いちじく揚げパン」も販売しており、やさしい甘さとすっきりした後味が記憶に残る味でした。
視察チームは名残惜しさを感じながら、熊本空港に車を走らせました。ふと見ると、田邉シェフがノートを開いています。実は初日から時間が経つごとに田邉シェフがノートを真剣に見つめる姿が増えていました。今回の旅で出会った素材と物語を、次のテーブルでどんな料理にするのでしょうか。
次回のイベント情報は、Eventから。